代謝(メタボリズム)の仕組みを解明した偉人。

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代謝(メタボリズム)の仕組みを解明した偉人。

食べ物の体内での科学変化を「代謝」と言います。

私は、新・メタボリズム栄養師協会で、メタボリズム栄養学を広めています。

現在、私が教えているメタボリズム栄養学のルーツは、フランスの生理学者

クロード・ベルナールが、生涯をかけて研究したものである。

しかし、彼が代謝(メタボリズム)の研究を天職として選ぶまでには、

彼の生い立ちと、長い苦悩があり、自分の本当にやりたいことを

見つけられずに悩んでいる、現代の多くの若い人々を勇気づけるものです。

私も、今の栄養学を天職とするまで、3回も職を変えています。

だから、すごくベルナールの気持ちがわかります。

ベルナールは、1813年フランスのローヌ川渓谷、サン・ジュリアンの村で生まれました。

父親は農園で葡萄を栽培しワイン商を営んでていましたが、事業に失敗。

貧困に苦しむ家族を残して死亡。

彼は村のイエズス会の神父さんの援助で、初等教育を受け、

リヨンの大学まで進学させてもらいました。

大学で医学を学んで、薬剤師になろうとしましたが、これに満足できず、

今度は、劇作家になる夢を描き台本書きに夢中になった。

最初に書いた喜劇作「ローヌ川のバラ」は地方の劇場で上演されて

かなりの好評を得た。

この成功に自信を持った彼は、英雄であるアーサー王の活躍を題材にした

歴史大作劇「ブルターニュのアーサー王」を書き上げ、この草稿(下書き)

を持って、パリに向かった。この時21歳。

パリで彼の台本を読んだ文芸評論家は、なかなかよくできていると言って

くれたが、ベルナールが今後、劇作家として、独立して成功する可能性は

ないと判断した。(劇作家は見抜いていたのでしょう?)

文芸評論家は、ベルナールにとりあえず、医学の勉強して、医者になりなさい!

と勧めた。この助言は、適切なもので、劇作家を諦め医学の道に進路を進める

出来事であったことに間違いない。

「なお、ベルナールの戯曲は彼の死後、出版されています。」

ベルナールは、1834年にパリに移り、パリ大学の医学部に入学した。

医学生時代のベルナールは、講義にも気乗りせず、無口、やる気がない

印象だったそうです。

まだ、この時は、劇作家の夢を諦めきれなかったのかもしれません。

その後、1836年実習医試験、1839年インターン試験にそれぞれ合格し、

1841年、コレージュ・ド・フランスの研究室で、

マンジャンディ教授の実験助手として勤務し始めると、突如、魚が水を

得たように才能を発揮し始めたのです。そして、生理学的実験の専門家となったのです。

ベルナールの栄養学に対する最大の研究は、体内での糖質の代謝(メタボリズム)の

解明です。

彼は、それまでの医学で食べたものが、体内に取り入れられ、それが排泄される、

いわばエネルギーの「出納」の研究を「家のドアから何が入り、

煙突から何が出るかを外から眺めて、家の中で起こることを考えようとするもの」

医学だと酷評しています。

体の仕組みと栄養素の関係を動物実験を繰り返して行きました。

彼の最初の成果は、砂糖からブドウ糖ができることを発見し、体でどう

利用されるか調べ、砂糖液を犬の静脈に注射すると、砂糖は、そのまま排泄された。

次にブドウ糖を注射すると、尿には現れずどこかへ行ってしまった。

つまり、砂糖は2糖類で、そのままでは、小腸から吸収されない。ブドウ糖出ないと吸収されずに細胞で利用できないことを発見したのです。

ベルナールはさらに研究を進め、ついに、肝臓で、ブドウ糖がグリコーゲンとして、蓄えられる働きを、医学を志しわずか10年で達成した。

それまで、なかなか解明されなかった栄養学の歩みに比べると、

一瀉千里(物事が早くはかどること)の勢いであった。

このほか、膵液にタンパク質と糖質を消化する働きや、胆汁に脂質を消化する働きも解明。まさに現代の栄養学のいしずえをになった人物です。

家庭では、ベルナールは嫌われていた。

ベルナールは、1845年、32歳の時にマリー・フランソワーズ・マルタンと見合い結婚、二人の娘にも恵まれています。

ベルナールの時代には、麻酔薬がまだ開発されていなかった。

世の中のためになる体の仕組みと栄養素の解明には動物実験は、必要ですが、麻酔なしの実験は、うめき苦しみ、その様は見るに絶えなかったと言います。

彼も、哀れみつつも実験を繰り返して行ったが、英国動物愛護団体から動物虐待であると非難の声が上がった。

やがて、フランスでも非難され、不幸なことに妻と2人の娘までが、彼の実験に猛反発した。

それでも、動物実験が、将来の人類のためになると、医学研究を天職として、実験をやめることができなかった。

これが元で、1869年、家庭崩壊につながり妻と2人の娘は家を出で行った。そして2度と帰って来なかった。

いかに、研究で大きな業績をあげ、多くの栄誉と名声に包まれても、妻と娘に去られた、ベルナールはどんなに寂しかったでしょうか。

その後、医学、生物学者必読の書である「実験医学序説」を書き上げ出版した。

なお、ベルナールは大学の講義中、彼の著書を賞賛するラファロビッチという女性に出会い。心のかよう知的な交際を長く続けた。

生涯を実験室で、文字どおり血まみれになって格闘したベルナールでしたが、64歳の時、実験中に突然倒れた、そして死の数日前には、こういったと言われる。

「実に残念だ。この研究を成し遂げていたら、どんなに幸せだったろう」と言ったそうです。

死の直前には、カトリックの司祭を呼び、研究のために家族を失った寂しさを訴えたと言います。1878年2月10日。そして、安らかに息を引き取ったそうです。

日本は明治11年、東京大学が設立されたのが1877年のことです。
まだ、まだ、西欧には遅れていた時代ですね。

現代の栄養学の礎を築いた、ベルナール。決して、平坦な道を歩んだわけでなく、苦労もたくさんあったんだな、せめて、最後は家族に看取られていきたかったのでしょう。

彼の死に際してフランス政府は、国葬の栄誉を持って弔っています。

私が栄養学に出会って、ベルナールの著書をいただいた本ですが、

昭和19年のものです。二人の医師から、私に伝えれれたものです。

 

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